大行沢に代表される二口山塊に初めて足を踏み入れたのは、小さな短い沢と秋の尾根筋であった。人の足跡が聞こえない沢筋と錦秋の尾根道に思わず立ち尽くし、次の山が、次の沢が際限なく見えてきた。それ以来、土日の休みだけでは遠い道のりを通い続けた。ブナの林をとうとうと流れる舗装道路のようなナメ床に癒されただけではない。ナメは時にして頭上に広がり足場のないつるつるのゴルジュやスラブ壁を生みだし、突然立ち上がり滝を形成し緊張を生む。だが、緊張が解かれた後には再び癒しのナメ滝の連なり。まるで人生のようではないか。ナメ床を通り過ぎてゆく流れの音は胎内で聞く母の呟きのように、森の自然の中に吸い込まれて風の音や鳥の囀りを邪魔しない。社会の営みの中で辛い時期は誰にでもある。山どころではない時期に必ず思い出していた二口山塊の風景。自分の境遇を嘆くのではない、滝の弱点を見極め突破してゆく喜びは、自分の境遇を喜びとして克服してゆく過程の楽しみではないか。奇抜な滝や造形にあふれた二口山塊の沢を歩くとき、滝の向こうにある稜線を眺めて、その過程の喜びを学び、英気を養っていたのかもしれない。過程の辛さを喜びとして、楽しむことを教えてくれたのも又山である。