雪が残るほどではない里の山塊は、春まだ浅い空気の中で桜が咲き 始め、足下ではすみれ草が可憐な花を咲かせている。芽吹きの淡い色彩の山並みは色を 増して麓に下りてゆく。遠くの山脈はまだ白く輝き、春を遠ざけてはいるが、岩峰に吹 く風に冷気はなく、爽やかな里の匂いを運んでくる。常に宙に浮いたような痺れる高度 感、懐かしい岩の感触に我を忘れて遠い過去の世界に遊んでしまう。これから山登りを 始めようとする人や、今現在情熱を燃やしている人の輪の中で、どうも最近は思い出や 経験の果ての感情や話が多い。過去を振り返る話やそれに基づく様々な経験談が時には 大いに役立つこともあるが、現在進行形の人には意味の無い逸話のようなものだ。山の 技術は伝承ではなく、体に染みつく習性のようなものであり、説き聞かせるものでもな く、体が自然と動くものである。考えずに自然な仕草が山で役立てばそれが最高な技 術。登り終えて狭い岩峰に腰を下ろす。眼下に広がる彼方の風景に、まだ遠ざけてはい けない世界を胸に刻んだ。