日常生活では望めるはずの無いものは最初から掴もうとせず諦める。だが山に向かうと山を仰ぎ、両手を広げ何かを掴もうとする。頂きに行けばそれが掴めると信じて。雲や空高く飛ぶ鳥や太陽は決して掴めるはずもないが、何かが変わると信じている。山に登れば一度はある辛い場面も、山が織りなす自然に支えられているから黙々と信じて登って行ける。病気や怪我、仕事の現実と向き合い、なすすべもない日々の生活は急に大きくは変えられないけれど、山登りのように一歩づつ歩いて行けば、楽しく語れる時代がきっと来る。
山に行く仲間、仕事の仲間、呑み仲間、夫婦に家族。その場面に応じた仲間は大切だ。その場面から離れたとき、自分の空いた時間に何の目的もなく待ち合わせ、ただ一緒に過ごす、目的と手段が決まっている趣味の集まりの中では分からない付き合い。それが友達でしょうか。異性なら恋人。目的がないから、思いつきの、たわいもない話がだらだらと続き、時間だけが過ぎて行く。それが以外と楽しくなってくる。。無駄と思われる時間が育んだものは、損得が無意味に成り、語る事だけが唯一の楽しみになった老いの時代にきっと役立つ。
雅